財団法人 総合科学研究機構 寄稿
平成15年11月5日

つくば風車の歴史と未来を想う

つくば風車との出合い
 かつてつくば地域には数百基に至る揚水風車が農村生活改善のシンボルとして風になびいて羽を回していました。といいましても今日のつくば市民の多くは「?」のことと思います。それは筑波に研究学園都市を創ろうと政府が決定した昭和38年頃までには、モーターの普及とともに産業機械としての使命は消え、今日までその姿をとどめるものはありませんでした。
 私はこのつくばに生を受けた1人で、昭和38年といえばまだ小学生でした。通学路となっていた水田地帯を頬を赤くして通学しておりましたが、各所に木造構造物の残骸があったのが思い出されます。それが風車であったことやその勇姿を知ったのは実に30年後のことでした。
 昭和25年、今から半世紀前になりますが、その風車が林立していた地域は現在のつくば市の前身桜村、そしてさらに小さな自治体「栄村」でありました。村内はおもに、茨城県南の中核都市として栄えた土浦、あるいは首都東京への農産物生産基地の一つでした。まだ戦後復興のさなかであり、また皇国主義から民主主義という国家の大転換の渦中でもあります。その栄村がとった豊かさの目標は文化村でした。特に公民館活動に力点がおかれ、農村生活改善運動や青年会、婦人会など各世代での活動が活発に取り組まれました。それらは県の依頼を受けた読売映画社制作になる「新しき村」として映像記録され、「新農村計画と新生活運動の徹底をはかり、県内各地を巡回指導するために県が制作したもの」です。そのワンシーンにこの風車が記録されたのでした。
 10年前となりますが、その記録映画を見る機会がありました。かつての生活の様子が伝わり、なつかしくもあり、又、心なしか寂しくも感じる歴史の証言といった印象でしたが、映像がこの風車に差し掛かったとき、先の残骸の記憶とがクロスオーバーし、食い入ることとなってしまいました。

昭和25年に映像記録された「新しき村」の1カット

 風車もさることながら、郷土の歴史に感心を持っていた私は、その映画のビデオ版をコレクションしました。ある日、知人のビデオ制作を業とする茨城ビデオパック社岩崎氏に見せたところ、彼もこの風車に目が留まり、以来彼との共同での取り組みが始まりました。岩崎氏はすでに各地の民俗文化財のビデオ記録や、近くでは土浦城楼門の再建記録など豊富な実績を積んでおりましたが、つくば史の中で「産業」遺産が殆ど見えない不思議さを感じていたとのことで、まさにそうした心情に火をつける結果となりました。

つくば風車の歴史

 昭和24年出版の「風車と風力発電」(本岡正樹著・オーム社)に次の記述が残ります。「かかる簡易な風車が我が国農村に流布し始めたのは、丁度昭和4年の頃、茨城県筑波山麓の谷田部町に居住する高野某氏が著者の放送により訪ねてきて、自村一帯が筑波高地のため、水田をつくることができず、麦豆等の畑地耕作により他はないため米穀類に欠乏し、ぜひ風車灌漑で開田を試みたい希望を申し込まれ、甚だ簡易な木製風車を作って先ず、試験することにしたためである。これは予想以上の好成績を示した。偶然その翌年関東一帯を襲った大干ばつで益々この風車の有効なることを知ったので、茨城県庁では補助金まで出して一般に奨励したので忽ち県下に流行し、栄村、大穂村そのほか藤沢村では有名な櫻川を挟んで土浦市付近一帯が従来の釣桶式井戸による灌水を悉く廃してこの簡易風車に代えたのである」とあります。当初高野某氏が目論んだ谷田部高地にその風車の普及はみなかったが、替わって低地部で普及を見たと読めます。しかし、栄村の古老の間では違った歴史も語られています。「大正の末代、当地に今も残る「三峯(秩父)講」に参加した大工、増山清四郎が道中の深谷市あたりで、水田になびく風車を見、意匠をまねて試作したのが始まり」と。いずれにしても、当初は大工技術にたよったこの風車も数を重ねるにつれ、一般農家の皆さんの手作りも加わり、「栄村では数百機が建ててあった」(先の「風車と風力発電」より)と記録される結果となりました。

「風車と風力発電」昭和24年刊より

風車利用の分布と地域の特徴
 このように揚水風車は地の利の上に成り立った風物でありました。一方、同様の風車は千葉県房総にたくさんあったと解説するのは現代の風車博士、足利工大牛山教授です。氏は「外房にある丸山町ではかなりの風車を使っていた。それには発達の必然性があった。丸山町の田畑の地質は「籠田(かごた)」といって粘土質ではなく、水が田畑からザルのようにしみ出してしまうため、絶えず水をどんどん入れるため風車が必要だった」と。また、「藤沢勘兵衛と研究学園都市の慨成」(阿部定輔著、ステップ刊)によると、「日本では揚水風車は6地域で活発に使われていた。諏訪湖周辺では3千台も稼働していたが、それを除けば量的にみてこの桜川流域は全国有数の規模だった」とふれられています。

このつくば風車が発達した背景を探ってみると地下水の水脈と、水を必要とする時期の風の量との関係を読んだ農家の皆さんの経験と勘により立地していたようでした。事実となりの集落には全くないということからみても2つの要素が相当重要であったことがわかります。先の「藤沢勘兵衛と研究学園都市の慨成」ではさらに、櫻川流域の風車はこの地域が養蚕の活発な地域であったため、水田の揚水作業から労働力を養蚕業に割くためと背景を陳べています。また、当地の有識な古老は、「その揚水作業の多くは農家女性の役割で、釣瓶での水くみは苦労の1つであり、この風車がもたらした女性の労働解放は計り知れない」とも。そうした時間的、精神的余裕が後の文化村づくりの礎となったのではないかと推測されます。

筑波山と水郷霞ヶ浦
 揚水風車が櫻川流域の水田に恵みをもたらしていた頃、下流の霞ヶ浦では独特の漁法「帆引船」が活躍していました。これもまた、風を巧みに操り、湖上満面にまっ白な帆が陽光に照らされて豊かな風景を作っていました。あの映画史上の名作「米」の中に登場するその風景はまさに圧巻といえます。
 陸地の風車と湖上の帆引き。共に風という同じ自然のエネルギーを取り込んだ、先人の知恵に想いを馳せるものです。また、その背景としての「水」も見逃せません。つくばにおける水郷の遺産は他にもあります。一例を挙げれば、筑波山麓は神郡の地に全国一社といわれる「蚕影山神社」がありますが、そこに継がれる「金色姫伝説」に深い感動をおぼえます。古代天竺の王女が、美貌ゆえに不運に見舞われ、桑の木で作られた丸木船での流浪の末に筑波山麓に流れ着き、地元の「漁師」の手厚い情にふれ、その恩返しに「絹」づくりを示唆したというものです。そこに広くは東洋の文化の源流との交感、接点が垣間見られ、いつの世も美しさの象徴として人を引き付けてやまない「シルク」へのあこがれ。そしてその文化の交流の導き役「水」。つくばが水のもたらした東西文化の終着地ともとれるこの物語の中にも水郷の情緒が浮かんでいます。

観光として今に伝わる帆引き船の勇姿

つくば風車の復元
 半世紀後の平成12年、パートナーの茨城ビデオパック、岩崎氏や同所のスタッフ藤沢さんらと共に、当時の大工増山さんの後継、弘さん(74)の手により復元製作に取り組み、その過程を映像記録できたことは最後のチャンスでした。わずかな資料と、討ち塞がれた末期の状況から、当時の部品もほとんどない中、弘さんという考案者の孫が記憶していたことと、家業の大工職として再現する技術があったからこその復元でした。この機の特徴はほとんどが木材という加工しやすい資材であることや、製材物に頼らず切り出し材であっても相当部分が担えることなどから、地方の素材を多用できるという極めて簡易なことです。また、風量による制御は強弱に応じて羽根の部分を脱着するという、人とのパートナーシップによりなせるもので、実にヒューマンティックといえます。この取り組みはその後、牛山教授の尽力により国際学会でも発表され、中央アジアの発展途上国に技術輸出が検討されるまでになりました。

復元されたつくば風車

 今日、時代は自然との共生社会の構築が使命となりました。また、それらに相まり、風力を含む自然エネルギー利用の研究も盛んに行われています。
 かつて風車が地域の農業、農村社会に恵みをもたらしていたこの郷土は、いつしか先端科学技術都市にうまれかわり、文化と科学技術の情報発信の拠り所となりました。いまここに郷土の遺産に注目し、温故知新の視点のもと、この風車の「社会的に果たした恩恵」を再認識し、未来への可能性を期待します。

つくば市地域新エネルギービジョンにみる風力利用
 つくば市では平成14年2月、地球温暖化対策の国際的枠組み合意を受けた市町村地域新エネルギー導入ビジョンを策定しました。その中で自然資源活用の1つとして風力利用による発電が取り上げられています。かつての風車自体は今日的要求に応える精度を持つものではありませんが、そこにもたらされる自然からの恩恵の念は共通するものです。
 古老にあっては、エネルギー政策以前に、郷土の知恵(遺産)の顕彰的取り組みがあって初めて未来への継続性が認識できることでしょう。ビジョン策定の背景にこうした部分が欠落しているのが残念です。ロウテク風車は地域の人々の誇りを回復するモニュメントとして今に活きる価値があると考えます。
 最後に文化村としてのなごりを伝える当時の公民館広報誌を飾った郷土画家鷹巣清氏による表紙絵をご紹介し終わります。

 

筑波山を借景に田園に広がる風車群を画いたスケッチ(昭和28年作)